貫前神社:八雲ニ散ル花 外伝

投稿日:

b190487-2019-12-5-21-30.jpeg

信州街道に面する群馬県南西部、世界遺産・富岡製糸場から車で10分の場所に、上野国(こうずけのくに)の一宮「貫前神社」(ぬきさきじんじゃ)があります。
貫前神社は形式として珍しい「日本三大下り宮」の一社とされる神社です。

b190515-2019-12-5-21-30.jpeg

神様は通常、高いところに祀られるものです。
神棚を家庭で祀る時も、極力高い場所に祀るようになっており、止む無く上階に人が住むような場所に祀る場合は、神棚の上の天井に「雲」と書いた紙を貼るようにします。

b190514-2019-12-5-21-30.jpeg

なので神社も基本的には山の上・丘の上など、高い場所に建てられています。
しかし稀に高いところから下っていく神社が存在します。
その代表とされるのが日本三大下り宮、ということなのでしょう。

b190513-2019-12-5-21-30.jpeg

しかし貫前神社に関していえば、長い上りの道と階段の参道を行った先に、下りの階段がありました。
三大下り宮の他の二社、宮崎の「鵜戸神宮」、熊本の「草部吉見神社」はひたすらに、下りの階段があるばかりでした。

b190499-2019-12-5-21-30.jpeg

貫前神社の総門横、上りきった所の脇に、末社群がありました。

b190511-2019-12-5-21-30.jpeg

そこの銀杏の紅葉が見事だったので、自然と足が向きます。

b190506-2019-12-5-21-30.jpeg

貫前神社の境内には、天然記念物に指定される巨木も多数見られます。

b190507-2019-12-5-21-30.jpeg

この黄金色の大銀杏は富岡の名木10選の1つ。

b190509-2019-12-5-21-30.jpeg

またその横には同じく富岡の名木10選の1つ、神々しい樹齢1000年のスダジイの巨木が根を張ります。

b190500-2019-12-5-21-30.jpeg

広めの敷地に鎮座する末社群は、社領内に祀られていた各社を寛永12年の造営時に一棟にまとめた「二十二社」、

b190504-2019-12-5-21-30.jpeg

寛永12年以前の本社の旧本殿を移築し、大山祇神ほか17柱を祀った「日枝神社」、

b190503-2019-12-5-21-30.jpeg

伊勢屋敷に鎮座していたものを寛永12年に遷宮したと伝わる「伊勢内宮・外宮」になります。

b190501-2019-12-5-21-30.jpeg

c1d-2019-12-5-21-30.jpg

b190462-2019-12-5-21-30.jpeg

それでは総門をくぐります。

b190463-2019-12-5-21-30.jpeg

そこから先は、見事な下り宮。
深海に沈みゆくように、足を進めます。

b190496-2019-12-5-21-30.jpg

と、総門のすぐ横に「蛙の木」という木が立っていました。

b190497-2019-12-5-21-30.jpeg

この木はタブノキで、太平洋戦争末期に蛙に似たサルノコシカケが出現したのだそうです。
祭神の経津主神が勇武に優れていたことから「勝ってかえる」「勝ちかえる」として兵士・家族の信仰を集め、今では交通安全の守護「無事かえる」として信仰されています。

b190465-2019-12-5-21-30.jpeg

階段の途中、手水舎の上に「月読神社」(つくよみじんじゃ)が鎮座していました。
シンプルな造りですが、朱色が雅さを醸し出しています。

b190464-2019-12-5-21-30.jpeg

そしてこれまた見事な楼門。
下り宮の深海の奥底にあったのは竜宮城でした。

b190467-2019-12-5-21-30.jpeg

貫前神社の祭神は「経津主神」(ふつぬしのかみ)。
物部氏の祖神で、神代三剣の一振り「布都御魂剣」の威力を神格化した武神とされます。

b190495-2019-12-5-21-30.jpeg

祭神のもう一柱は「姫大神」(ひめおおかみ)。
不詳の神とされますが、一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされています。
また、『一宮巡詣記』では「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載されており、女神の方が主神であることを匂わせています。

b190466-2019-12-5-21-30.jpeg

当社に伝わる特殊神事としては「鹿占神事」(しかうらしんじ)、「機織神事」(はたおりしんじ)、「御戸開祭」(みとびらきさい)、「御鎮神事」などがあります。
鹿占神事は鹿の肩骨を清浄な火で焼き、錐でそれを突き刺すというもの。
すんなり貫ければ大吉、そうでなければ小吉か凶、錐が立たない場合は大凶となります。

b190493-2019-12-5-21-30.jpeg

また非常に特異的な神事が「御鎮神事」で、これは神事奉仕中に、絶対に口をきいてはいけない、口を利けば死ぬと伝わるものです。
言い伝えられるところによると、ある宮司がこの神事で「火は大丈夫か」と漏らしただけで翌日急死し、あっと叫んだだけで急死した人もいるとのこと。
いなないた神馬も即死、咳払いですら死ぬと、非常に恐ろしげな神事なのです。
この御鎮神事で使用した草履は、神聖な魔除けになると云うことです。

b190494-2019-12-5-21-30.jpeg

c1d-2019-12-5-21-30.jpg

b190468-2019-12-5-21-30.jpeg

楼門で囲われた聖域の中に鎮座する社殿。
入母屋造の社殿は、寛永12年(1635年)、江戸幕府第3代将軍徳川家光により造営されたと云い、元禄11年(1698年)、第5代綱吉による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ、現在ように華麗な造りとなったと云います。

b190470-2019-12-5-21-30.jpeg

本殿向かって左脇に鎮座するのは「抜鉾若御子神社」(ぬきほこわかみこじんじゃ)。
祭神の御子神を祀る摂社です。

b190473-2019-12-5-21-30.jpeg

社伝によると、創建は安閑天皇元年(534年)3月15日とあり、「鷺宮」(安中市の咲前神社に比定)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりとしています。

b190488-2019-12-5-21-30.jpeg

本殿は「貫前造」と呼ばれる独特な造りになっています。
本殿内部は2階構造になっていて上段に神座が据えられ、稲含山に向けて「雷神小窓」が設けられています。

b190474-2019-12-5-21-30.jpeg

この雷神小窓、お分かりでしょうか。
拝殿の屋根の上あたりに、四角い小さな窓が取り付けてあります。
四角い枠の中には風神雷神の雷神が描かれており、雷神小窓と呼ばれています。

b190491-2019-12-5-21-30.jpeg

さて、社伝では「安閑天皇」の時代に 物部氏が祖神を祀ったことに始まったとしている当社。
物部氏といえば「秦氏」(はたし)の一族です。
「秦氏」にはいくつかの流れがありますが、主には丹波の「海部家」、尾張の「尾張家」、筑紫の「物部家」などになります。
秦氏の「秦」とは支那の「秦」のことで、徐福とともに出雲に上陸した一族が「海部家」、2度目の徐福の航海で佐賀平野に上陸した一族が「物部家」となりました。
尾張家は畿内葛城の大和入りした海部家が名を変えたものです。

b190469-2019-12-5-21-30.jpeg

秦氏とは正確には、秦国人ではなく、秦に最後に滅ぼされた「斉」の人たちです。
斉人は失われた十支族の末裔の血を引くもので、日本の古い神社に六芒星など、イスラエルの痕跡が残るのはそういう理由だと云います。
また「秦」を「はた」と呼ぶのは、秦氏が機織りの技術を日本に伝えたからというのが由来のようです。
普通に考えれば、「秦」を「はた」とは呼ばないですよね。
かの富岡製糸場もすぐ近くにあり、当社に伝わる「養蚕機織りの神」は秦氏・物部の祀る神がその正体か、と納得するものです。

b190475-2019-12-5-21-30.jpeg

ところが話はそう簡単ではなさそうです。
当社の謎の祭神「姫大神」と同じ神を祀る有名な神社が九州にあります。
「宇佐神宮」です。

b190476-2019-12-5-21-30.jpg

宇佐神宮の主祭神は八幡神「応神天皇」ということになっています。
しかし真の祭神は謎の神「比売大神」です。
この「比売大神」は一般に「宗像三女神」のことであると解釈されていますが、実のところは邪馬台国の卑弥呼と呼ばれる「豊玉姫」だと、富王家の伝承は説きます。
豊玉姫とその息子「豊彦」、娘「豊姫」、そして物部の王「イクメ」は、連合して大和へ東征を仕掛けます。
その途上、豊玉姫は安芸の宮島で亡くなり、仮の葬儀をあげ、遺体は宇佐王国に引き戻されます。
残る豊彦と豊姫、そしてイクメはついに東征をなしとげ、大和の覇者となるのです。

b190477-2019-12-5-21-30.jpeg

この豊玉姫の娘「豊姫」こそが卑弥呼の後継者として知られる「台与」(トヨ)であり、「豊鍬入姫」であり、「豊受大神」であり、「天鈿女」なのです。
そして豊姫は、大彦の妹「百襲姫」(モモソヒメ)が「大日孁」(おおひるめ)と呼ばれたのに対し、「稚日女」(わかひるめ)と呼ばれました。
そう、『一宮巡詣記』に「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載されていた姫神は、豊姫のことだったと云うことです。

b190479-2019-12-5-21-30.jpeg

また、宇佐一族は月神信仰でした。
月読命は豊玉姫、そして豊姫が祭祀した神です。
貫前神社楼門前に、末社の中で特別な社殿を持って祀られていたのが月読命でした。

b190485-2019-12-5-21-30.jpeg

大和入りを果たした豊彦と豊姫、イクメでしたが、イクメは自分が王になろうと考え、豊彦と豊姫を欺き、国外に追放します。
そして念入りに追っ手の軍を放ったのです。
東に逃れるしかなかった宇佐・豊家の人たち。
その中には共闘し、志を一つにした物部族の人たちもいたことでしょう。

b190481-2019-12-5-21-30.jpeg

逃れついた上野国の地で、彼らが姫神「豊姫」を祀ったとしても不思議はありません。
つまり、貫前神社の真の祭神は「豊姫」であった、と云うことになるのではないでしょうか。

b190482-2019-12-5-21-30.jpeg

藤原不比等が記紀を編纂するにあたって、歴史から消し去った一族がいます。
それは偉大なる出雲王家と宇佐・豊王家です。
宇佐王家の豊玉姫は魏国から「親魏倭王」の称号を得ていました。
この事実を不比等は歴史から消し去りたかったのです。

b190484-2019-12-5-21-30.jpeg

不比等は権勢に任せて、全国の豊王家の痕跡を消させました。
そうして宇佐神宮の主祭神は比売大神と名を変え、祭神の3位に格下げさせられたのです。
貫前神社では同じく姫大神と名を変えられ、主祭神を物部の「経津主神」とすげ替えられたのではないでしょうか。
この聖域内を歩いていると、男性的というよりは、女性的な優しい気の香りを感じてしまうのです。

b190492-2019-12-5-21-30.jpeg

2318e8b2abe5898de7a59ee7a4be-2019-12-5-21-30.jpg

9件のコメント 追加

  1. nokanann より:

    こんばんは。
     竹葉瀬ノ君(一族)は、ここなんじゃないかと密かに思ってます。
    元、お寺の在った場所、あの場所がずっと気になってました。
    そうなのです。私はここ数年、桜の時期に訪れています。
     なぜ、ここで(なんとなく)月読神社なのかと、思っていた疑問が、かの本に依って解決したのであります。

     摂社末社に重要な鍵が有ることも楽しみの一つです。
    日本のそこかしこに隠れた出雲族の痕跡を探すのも旅を一層、より深い楽しみに導いてくれます。

     面白い話で、お客様がDNA鑑定をしたそうです。(その方は、津軽出身です)
    最初、インドの血が数パーセント入ってると云う結果を聞いた時、その鑑定間違いじゃ?と思いました。
     インドから来たドラヴィダ族と云う話を読んだ後で納得です。
    日本人に多い型だと書いてありました。興味深いですよね。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      ああ、そうか、竹葉瀬ノ君、そうですね。
      そこまで思い至ってませんでした!
      確かにそうです、ぴったりです!
      はぁ〜なんで思い至らなかったんだろ。
      いやそうですね、めっちゃ興奮してきました。
      もう一回行き直したいっ!(笑)

      氣比神宮まで少々距離はありますが、秘密裏に事をなし得るにちょうど良い距離でもあります。
      そうか〜。
      でもあの月読社は後の再建でしょうから、真の歴史を伝承している人が、そこにいるのだろうと思いますよね。

      ドラヴィダ族が日本最初の人類というこではないのは確かで、宇佐族は彼らよりも早く日本に定住していたと伝わっています。
      さらに沖縄の港川人始め、様々な原始人がこの島国に至っていたというのは科学的に証明されています。
      その後にやってきた秦族、日矛族、いろんな国の血が複雑に絡み合って僕らはここに立っています。
      ただ秦族・日矛族は、今の情勢を見ても分かるように、好戦的な民族でした。
      日本人の穏やかさを形成できたのは、ドラヴィダ族のDNAが大きいのではないか、と思っています。

      世界的評価では、君主制国家よりも共和制国家の方が優れている、とされているようです。
      それは世界の君主は、国民から搾取する事しかしてこなかったからです。
      やがて国民はクーデターを起こし、君主のすげ替えということが繰り返されてきました。
      2度の大戦は、君主制国家と共和制国家の争いという一面も持っており、これにより多くの君主国家が滅ぶことになったそうです。

      が、共和制を超える、理想の君主国家がありました。
      それは君主が民から搾取することなく、また民も無償の愛を君主に向ける、そんな関係性です。
      それが日本です。
      万世一系を唱える天皇制が今に続くのが、その証です。
      世界の極東の小さな島国にこの君主制が生き残っているのは、まさに奇跡というほかありません。
      そんな日本を残してくれた、古代人とこの国土に感謝の気持ちが絶えません。

      いいね

      1. nokanann より:

        昨今の政治利用されている天皇家の存在意義に疑問が膨れ上がってます。ただ、戦後、敗戦国が植民地にならずに済んだのは、(世間的に)万世一系の世界にも稀に見る天皇家の存在があった事だそうで、その事は感謝してます。

        もう一度、上州へ行く事がありましたら、是非、妙義神社、中之嶽神社がお勧めです。中でも、中之嶽神社には、【轟岩】(←重要じゃないですか?)と云う磐座が在りますよ。( *¯ 罒¯*)
        (金運押しで、躊躇しますが、急な階段を登った先は別世界です。ヤマトタケルとか……笑⃝)
        私は、体力に自信が無いので途中で止めたので情報のみですが。

        福岡の方に食べ物の事を言うのは気が引けますが、有名な永井食堂のもつ煮とシャンゴのシャンゴ風パスタもおすすすめですよ。

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          共和制というのは、響きは良いのですが、結局は見えない君主を中心にした壮大な世界的な君主制に他ならないと考えています。
          搾取がある方の君主制で、グローバリズムとも呼ばれているものです。
          そこに染まれば、僕らは永遠の家畜になってしまいます。
          まあ、今でも僕らは結構搾取されていて、すでに共和制に飲み込まれているようなものですから、今更、と思わなくもありません。

          その中で、天皇家の存在意義をどう捉えるかは難しいところがあります。
          僕は天皇家の存在は、日本人が世界の最後の良心であることの象徴だと捉えます。
          天皇家が失われてしまえば、出雲族から続く人を想う日本人のアイデンティティを僕らは見失いかねないのではないか、と危惧しています。
          政治利用され、内部侵食を受け続ける天皇家の中で果敢に立ち向かい、私たちに日本人としての思いやり、日本人性を改めて示してくれたのが前天皇、今上上皇陛下だと思います。
          僕は上皇陛下のその勇気ある行動に心から感服し、傅く思いです。
          今上天皇におかれましては、まだ、これからの動向を見守るばかりです。

          人生も残りの方が少なくなってきたこの頃、どうせ人はいつか死を迎えるのだから、死後には全く無価値な搾取された財などに心を揺るがせることよりも、財なくとも心を豊かにするものを貯蓄する方が有意義だと思うようになりました。
          美しいものを見て、美味しいものを食べる。
          愛しい人や好ましい人たちと語り合い、過ごす。
          そうした心を豊かにする経験こそ、巨万の富よりも死後の魂を豊かにさせるのではないかと思う次第です。
          nokanannさん、素敵な情報ありがとう。
          ぜひ妙義神社、中之嶽神社、そして永井食堂も伺わせていただきます。
          轟岩を素通りするわけにはいきませんもんね(笑)

          いいね

  2. CHIRICO より:

    出雲族の先祖はインドのドラヴィダ族、ということです。
    好戦的な狩猟民族アーリア人の侵攻で、温厚な農耕民族だったドラヴィダ族は殺され、奴隷として捉えられたそうです。
    ドラヴィダ族の一王だったクナトは民を連れて、それまで耳にしていた東の海の果てにある温暖な島を目指すことにしました。
    他民族に出会って抗争にならないよう、寒い北方の道を進み、樺太半島から北海道に移り、東北を抜けて出雲に至りました。
    なぜ出雲に定住したのか、というと、そこには良質な砂鉄を大量に含んだ黒い川「斐伊川」があったからだそうです。
    故郷に比べて、出雲は広葉樹に覆われており、春に一斉に芽吹くその姿が目に焼きついて、その定住の地を「出芽」と呼んだそうです。
    それが出雲の語源だと。

    出雲族の子孫は偉大な王を祖神「クナトの神」と崇めました。
    またその后を「幸姫」「キサカ姫」などと呼び、二人の子神としてインドのガネーシャを当て、この3神を「幸神」(サイノカミ)として信仰したそうです。
    長いという言葉はドラヴィダ語では「サルタ」というので、ガネーシャは日本では「サルタ彦」と呼ばれました。
    クナト神は記紀でイザナギ、幸姫はイザナミと表記されることもあります。
    また幸神は出雲の女神「神皇産霊神」としても表記されます。

    幸神信仰は男女の交わりをシンボルとしていました。
    古代には乳幼児の死亡率が異常に高かったので、生命誕生の行為は神聖視されたといいます。
    性器のような岩を御神体とするのは、出雲族が行なった祭祀の名残です。
    出雲から出土する青銅器に×の刻印があるものがありますが、これは東出雲王家「富家」の紋であり、サイノカミが交わる姿を表しています。
    この×は東出雲に多く見られる四方突出型古墳も同じ意味であり、和歌山花の窟の垂れ下がるロープにも見受けられます。

    徐福は最初に故郷の童男童女2000人を連れて出雲に至り、なぜか一度国に戻ります。
    大した成果もないのに秦国に戻れば、気性の荒い始皇帝・嬴政に処刑されるかもしれないのに。
    そして再び3000人の童男童女を連れて、佐賀平野に至り、そこで死ぬまで暮らしました。
    彼は始皇帝に不老不死の妙薬を持ち帰るためでなく、始皇帝から故郷の民を守るため、危険を冒して2度日本にやってきたのだと、僕は推察しています。

    いいね

  3. 8まん より:

    ゆかりは古し貫前神社。上毛かるたで詠われる群馬の一の宮。
    斉。ニヤリ。秦になる前に中国では春秋戦国時代があり、呉、越、楚と滅亡した国がありました。最後に秦。
    日本に落ち延びた民たちがあるそうです。記紀にしても出雲伝承にしても関の東の伝承には足りてない。そう思えました。
    それは、古くから岐阜を境に関の東を劣った場所と伝えられてきた為なのかと。
    果たして関の東は出雲や大和の東征前に、文化や国が無かったのでしょうか?忌部一族が千葉に至る前に・・・。坂上田村麻呂の時代まで屈していない蝦夷の民。
    日本には3~4万年前くらいから人間が住みついていたそうです。D2遺伝子といわれる縄文人。狩りには長野の得産物で黒曜石が物々交換の形で
    各地に伝わってます。ミシャクチの神様在りし地、諏訪。アラハバキ在りし蝦夷。そうそうクナト神・・・アイヌでは「ク、ナドゥ」と表現されるらしい。
    「ク」は性器。「ナドゥ」はその行為。らしいです。榛名神社さんで見られましたかね。昔は自然の森羅万象崇拝と性に対しての崇拝、故国先祖神崇拝。
    出雲平野に人が住み始めたのはBC3000年くらい前とされてます。稲作青銅器BC600年に伝わった。
    徐福はBC210年位に秦の皇帝に不老長寿の薬を求められ日本に至ったとあります。
    日本で当時、不老長寿の薬とされたのは、朱に混ぜる水銀(体にマーキングしたり化粧したり)だったそうな。当時はニウツと呼ばれ和歌山の丹生比女神社の略記で水銀の事を知り、和歌山にも徐福伝承が残っていることから、誰かが丹生の事を秦に伝えていなければわざわざ秦から来ることもない。おそらく和歌山で特産物であった水銀は物々交換でも当時は高価であったのかもと。
    話が逸れた。
    私はいろんな人から可能性の過去を伝えてもらって考察してます。古代は勝者よりも消された敗者が多い。順序も大事。
    色々なアプローチが大切です。
    ここしばらく離れます。

    地震絡みのほうにしばらく行ってきます。では。

    いいね: 2人

    1. nakagawa より:

      横からお邪魔します。
      関の東のことをもっと知りたいと思っている一人です。
      主体が限られた伝承や文字資料では足りていないというのは、本当にその通り。
      有珠モシリ遺跡の貝輪、東日流日下王国、などなど。
      8まん様の探究が進まれますことをお祈りいたします。

      いいね: 1人

      1. nakagawa より:

        余談ですが、「クナト」は今読んでいる地元の伝承にも登場する言葉で、地名にもなっています。(修験道が入ってからは「不入道」という地名に変わっていますが。)
        意味は計算上大事な定数の置き換えとのこと。
        元々は違う言葉だったのが、現代に至る間に同じ発音になったのかもしれませんが、土地土地で「クナト」に意味を見いだしているのが興味深いと思っているところです。

        (って、こんなこと言ったら「クナトはドラヴィダ族の王じゃぁぁぁ。何度言ったらわかるんじゃい。」とCHIRICOさんに怒られそうですね。)

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          怒ったりしません(笑)
          古代のことなんて、絶対的な正解を導き出すことなんで不可能だからです。
          長ーい時間の中で、いろんな思惑がごちゃまぜになっていますから。
          僕ごときが歴史の深淵の一端でも解き明かせるのなら、とっくに歴史問題は解決しているはずです。

          これまでも時々書いていますが、大元出版本も完璧ではありません。
          矛盾が多いことも知っています。
          が、今まで自分で歩いてみて、疑問を感じていたことが、見事に辻褄合う内容だということも確か。
          まあ、ここは僕のフィールドなので、僕の主張をやや強引に押させていただいています。
          他所で「何度言ったらわかるんじゃいっっ!」なんて言いませんよ(笑)

          いいね

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください