大きなふくろをかたにかけ
だいこく様が来かかると
ここにいなばの白うさぎ
皮をむかれて赤はだか
だいこく様はあわれがり
きれいな水に身をあらい
がまのほわたにくるまれと
よくよく教えてやりました
だいこく様の言うとおり
きれいな水に身をあらい
がまのほわたにくるまれば
うさぎはもとの白うさぎ
だいこく様はだれだろう
大国主のみこととて
国を開きて世の人を
たすけなされた神様よ
鳥取市に「白兎神社」(はくとじんじゃ)があります。
ここは大国主と八上姫のラブなストーリーのきっかけとなった、「因幡の素兎」(いなばのしろうさぎ)伝承の地と伝わります。
参道の階段脇には石のうさぎがたくさんいて、様々なポーズで、本殿まで導いてくれます。
とても可愛らしいうさぎ達。
境内の入り口では、冒頭の歌が流れています。
唄にある「だいこく様」(大黒様)とは出雲大社の「大国主」のこと。
出雲神話の因幡の素兎の話は次のような感じです。
むかし「おきの島」に「うさぎ」がおりました。
なんとか因幡の地へ渡りたいと考えたうさぎは、ワニザメに数を数えてあげるからと一列に並ぶように言いました。
それはありがたい、と素直に一列に並ぶワニザメ。
しめしめとうさぎは数を数えるふりをしてワニザメの背をピョンピョン跳ねて渡りました。
あとちょっとで岸にたどり着くという時、うさぎは「やーいだまされた!」とネタばらし。
騙され、怒ったワニザメはうさぎの毛をむしり取ってズルムケにしてしまいます。
オオクニヌシと兄弟の神々は、美しいと評判の「八上姫」(やがみひめ)に求婚するため、因幡の国へとやってきました。
先にやってきた兄弟たちは悲しむうさぎをみて「海の水で体を洗い、風の吹く高い山のてっぺんで乾かしたらいいよ」と意地悪を言いました。
その通りにしたうさぎの肌は、真っ赤になってひりひりとさらにひどく痛み出します。
「いたいよ、いたいよ」
そこへ後からやってきたのはオオクニヌシ。
オオクニヌシは泣きじゃくるうさぎに、「どうしたのか?」とやさしく問いかけました。
事情を聞いたオオクニヌシは「早く真水で体を洗い、ガマの穂にくるまってもふもふしなさい」と教えてあげました。
言われた通り体を洗ってもふもふしたうさぎの体は、元のきれいな姿に戻れました。
うさぎはオオクニヌシにとても感謝して、「あなたはきっと八上姫と結ばれるでしょう」と告げます。
果たしてその通り、兄弟の神々を差し置いて、オオクニヌシと八上姫は結ばれるのでした。
この度ようやく、「宇佐公康」著『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』という本を手にする機会を得ました。
氏は高魂尊(たかみむすひのみこと)の125代目とされる宇佐家の子孫で、先代から一子相伝の「口伝書」と「備忘録」を引き継ぎ、それを本に記したとあります。
この宇佐国造家の伝承と宇佐国造家の他の古伝とを引き合わせて勘案すると、菟狭族は日本最古の先住民族として、9000年前の早期縄文時代には、山城国の稲荷山を根拠地として、狩猟・漁労・採取の原始生活を営んでいたそうです。
およそ8500年前、シベリア方面より日本列島に移動漂着したサルタ族が稲荷山に侵入するという事件が起きました。
領土を拡大したサルタ族からの圧迫で菟狭族は分裂、狩猟・漁労・採取の原始生活をしながら、転々と放浪の旅をつづけて各地に散ることになりました。
そう、サルタ族とは出雲族の事。
この因幡の素兎の最初のシーンは、菟狭族をうさぎに、龍神信仰があった出雲族をワニとして物語として残したという事なのだそうです。
然し、ん?まてよ???
宇佐公康氏は、「菟狭族」の祖先は最初に日本に到達し定住した、原始的狩猟民族であると言っています。
しかし氏が自らプロフィールする「高魂尊(たかみむすひのみこと)の125代目とされる宇佐家の子孫」という話と大きく矛盾してきます。
なぜなら「高魂尊」は紀元前230年ごろに日本へやってきた物部族の祖「徐福」の母親「栲幡千千姫」(たくはたちぢひめ)の事だからです。
うさぎが体を洗った真水の「御身洗池」(みたらしのいけ)、もふもふの「ガマの穂」を通り過ぎると社殿が見えてきます。
祭神は因幡の素兎「白兎神」(はくとのかみ)。
他、別の社に祀られていた「豊玉比売」(とよたまひめ)、「保食神」(うけもちのかみ)を合祀します。
別の社に祀られていたとはいえ、豊玉比売も保食神も、菟狭族に深い関わりがある神です。
「保食神」は、食物を司る神として知られますが、「日本書紀」では次のように語られます。
天照大神の命で高天原から月読神が訪ねてきたとき、保食神は最高のもてなしをしようと考えました。
彼女は自分の口や尻から米や魚・肉を吐きだし、その料理でもてなしましたが、月読神は「口から出したものをオレに食わせるのか」と、怒ります。
ついに月読神は保食神を剣でバラバラに斬り殺しました。
すると殺された保食神の体からは、次々と農作物や家畜などが生まれたということです。
実は同じような話が古事記にスサノオとオオゲツヒメの神話として記されています。
これはいわゆる食物起源神話と呼ばれるもので、食物の豊作祈願のための神殺しという深いテーマがあります。
月読神もスサノオも、物部族に由来するところがあるので、狩猟系父系民族特有の残酷な発想だと思っていましたが、出雲族にも女神の土偶を砕いて土に撒くという風習があったことから、再考の余地ありと思い直しているところです。
何れ「八雲ニ散ル花」シリーズの中で、このことを検証したいと思っていますが、そのためには今一度、僕は長野を訪れなくてはならないのです。
話は戻りますが、菟狭族・宇佐族のウサはうさぎのウサです。
本来はうさぎ族でしたが、ぎの文字が省略されてウサ族になりました。
彼らは月神を信仰していましたが、月のクレーターの影がうさぎに見えたことから、月の神と兎神を同一視するようになりました。
その月神を祀った巫女で最も有名なのが邪馬台国の卑弥呼とされる「豊玉比売」なのです。
この月に住むうさぎの話は、実に支那的です。
つまりウサ族の大元は高魂尊の息子「徐福」が佐賀平野で作った「物部王国」に由来すると考えるのが自然です。
しかし物部族は道教信仰でしたので、星神を祀り、月神は祀っていませんでした。
月神を巫女が祀るという風習は、どちらかといえば出雲的です。
物部族には神を祀る巫女という存在が希薄でしたので第一次物部東征では大和の太陽を祀る巫女の存在に打ち勝てず、大和に呑み込まれて同化してしまったという痛い経験がありました。
そこで菟狭族が日本最初の原始的民族であるという根拠の「およそ8500年前、シベリア方面より日本列島にサルタ族が移動漂着した」という伝承に注目してみます。
僕はこの違和感に気がつきました。
彼らが出雲族より先に日本に定住していたから出雲族が日本に来たのを見ていた、というものですが、そうなのだとしたら、なぜ彼らがシベリアを通って北海道から出雲、そして山城国の稲荷山にやってきたルートを知り得たのでしょうか。
それよりも彼らの先祖に出雲族がいて、それを教え伝えていたと考える方が、月読みの巫女の存在も合わせて理にかなっているように思えるのです。
つまりウサ族とは、物部族と九州出雲族の宗像族が婚姻関係を結び、両者の信仰を独自に混成させた一族なのではないかと思い至るのです。
白兎神社の前は因幡の素兎の舞台となった「白兎海岸」が広がっています。
第二次物部東征で連合した菟上王率いる宇佐・豊国軍は、山陰海岸を通って東へ進み、稲葉国の伏野にしばらく滞在したと富家は伝えています。
豊国軍の一部は占領軍として稲葉国の伏野に残り、月神の信仰を広めようと考えて宇佐社を建て、そこに兎神が祀られました。
それが後に「因幡の素兎」の神話が作られ、白兎神社の名前になったと云うことです。
白兎海岸に浮かぶ「おきのしま」の岩の上には、今にも海を飛び渡ろうとするうさ影が見えています。
そしてまるで白波が、ワニザメの背のように並んでいたのでした。
京都府亀岡市の南に桑山神社というのがあります。この神社は当時赤い波の立つ亀岡を灌漑して豊かな田にした時に使った鍬の山が神社の始まりです。しかもなぜか神社のシンボルマークが円形のポッチャリウサギなのです。一度お参りください。
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こんにちは、貴重な情報ありがとうございます!
うさぎのシンボルマーク、可愛いですね。
社伝によると、太古の昔、丹の湖であった亀岡盆地の南端の黒柄山に八柱の出雲の神々が降臨されたとあります。
これは往古より当地に出雲族が住んでいたということなのだと思われます。
ぜひ訪ねてみたくなりました!
京都でうさぎといえば岡崎神社も有名ですね。
こちらもまだ未参拝なので、もう少し様子を見て、計画を立ててみます。
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こんにちは。
こちらの記事の、「ウサ族の先祖には出雲族がいた」「ウサ族とは、物部族と九州出雲族の宗像族が婚姻関係を結び、両者の信仰を独自に混成させた一族ではないか」というところに「あ!」と思うところがありまして、コメントが長くなりますがご容赦ください。
なかひらまい著『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』という本を約1年前に読みまして、この中で「出雲の旧家に伝わる口伝」の存在を知り、大元出版の本に行き着いたという、私には恩人のような本なのです。
ご存知でしたらすみません。この本にはとある神社の関係者により語られた口伝が出てきまして、それはこの本の大きな柱の一つになっています。
その口伝を語った方というのがすごくて、戦後30年間終戦を知らずにルバング島で戦争を続けていた小野田寛郎さんなのです。和歌山県にある名草山の周辺(和歌山市・海南市)には「神武に殺された名草戸畔の遺体を頭・胴体・足の三つに分けて、頭を『宇賀部神社』、胴体を『杉尾神社』、足を『千種神社』に埋めた」という伝承があるそうで、小野田さんの実家は、その頭を埋めたとされる宇賀部神社というところなのです(お祖父さんが宮司、お父さんはその次男、ちなみに小野田寛郎さんはその次男だそうです)。
小野田さんがお父さんに聞いた話では、「宇賀部神社は九州から移住してきたときに、自分のご先祖様をお祀りしたもの」だとか。そしてそこに名草戸畔も祀られている。
九州から移住。ここの詳しいお話は…
小野田さんのご先祖・名草の人たちは、九州から移住してきた。宮崎から大分の、リアス式海岸のあたりに住んでいて半農半漁の暮らしをしていた。そうしたら人口が増えてしまった。そこで、みんなで相談して、よく似た地形で前の海で魚が捕れて、後ろの田で米が採れる所に移住してきた。そして、紀ノ川流域にキビが生えていたのを田んぼになおして開発。リアス式海岸が続く尾鷲まで人が増えていった。
ただ、「いつぐらいに移ってきたのか」の問いには、
「もう何千年も前の話。神武天皇で二千何百年か前でしょ。それより前にそこに来て、それから紀ノ川を全部開発して、それで熊野の方まで。それだけ人間が増えたのだから、何年経ったかわかりません。だから、相当、その間に時間があったはずです…」
これを受け、なかひら氏は名草戸畔と「神武」の戦いからかなり遡った時代(B.C.4000年〜B.C.3000年)に小野田さんの先祖が移住し、その後、出雲族も入ってきて…と推察するのですが…
移住してきた人たちは、1万年ほど前にインドネシア方面から日本に渡ってきて南九州地方に定住した縄文早期の人たちがルーツかも、と見ています。南方に目が行くのは、「名草戸畔の遺体を頭・胴体・足の三つに分けて」という伝承に、インドネシアのセラム島に伝わる「ハイヌヴェレ神話」との類似性に着目したからです。「ハイヌヴェレ神話」は五穀豊穣の女神の話で、記事にもありますスサノオとオオゲツヒメ、ツクヨミとウケモチノカミと同じ性質のものです。
この血を持っているということは、その他の検証からも異論はないのですが、この血「のみ」であるか?ということと、和歌山に来た時期に、?を感じてしまっていたのです。
クシヒカタやタギツヒコの葛城開拓は数千年どころか一世代でかなりのところまでやっていますし、技術があればそんなにまで時間はかからないのでは。
また、紹介される、和歌山に残された痕跡からは、南方(インドネシア)の文化を持つ人達と出雲文化を持つ人達が和歌山で融合したというよりは、かなり出雲化された、南方文化を持つ人達が和歌山に入ってきたように見えるのです。
で、冒頭のウサ族の見解を見て考えたこと。
約1万年前、インドネシア方面からの移住者が南九州に住む。人口増により、徐々に宮崎〜大分方面へ北上。
その後、アタカタスに率いられた出雲族が北九州に。二者は平和的に融合していく。出雲族と出雲文化の流入により人口増。南方の海洋技術に秀でた血筋でもあることから、小野田さん・名草戸畔の先祖は和歌山へ。
こうした融合により、宗像族は本家の出雲族より海洋技術に長けた集団となる。
さらに後、佐賀に秦族のクニができる。融合していくが、独自の形になっていき、菟狭族に。
これであれば、「出雲族より先に日本にいた」「出雲族がやってきたことを知っている」「先祖は高皇産霊尊」どれも納得できます。「山城国の稲荷山を根拠地」は、わからないですが。
うさぎがワニを騙してワニの怒りを買う。かつては親戚として親しかったのに裏切ったことへの怒りでしょうか。その後、大国主に助けられるように、和解した、ということでしょうか。
最後に、言わずに終わるわけにはいきません。そらくん、ですよね? かわいいです!!
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すごい!素晴らしい見解ですね!
とても貴重なコメント、ありがとうございます♪
木ノ国篇で名草戸畔もちょっとやりまして、興味があるところです。
『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』さっそくポチりました。
海祇ノ比賣巫女篇が終わったら、阿蘇と高千穂に伝わる鬼八の伝承をリライトしようかと思っています。
鬼八というのはアララギの里の王だったようで、アララギとはカムロギのことであり、現在高千穂や五ヶ瀬、阿蘇に多い「興梠」(こうろぎ)姓の先祖に繋がるのだそうです。
カムロギノミコト(神漏岐命)・カムロミノミコト(神漏美命)といえば、『天津祝詞』「禊祓詞」の冒頭に出てくる神の名です。
つまり宮崎の高千穂から熊本の阿蘇にかけての広範囲に、古い神の一族がいて、その王の名が「鬼」に「八」と今に伝えられています。
彼は当地にやってきた物部の王に最初こそ従順でしたが、やがて反逆し、首と胴と足を切られ、それぞれ別の場所に埋葬されたと伝わっています。
面白いですね!
「ハイヌヴェレ神話」のことは知りませんでしたので、女王伝説を読んで、再考したいです。
「うさぎがワニを騙してワニの怒りを買う。かつては親戚として親しかったのに裏切ったことへの怒りでしょうか。その後、大国主に助けられるように、和解した、ということでしょうか。」
↑その通りだと思います。
豊家はちょっと乱暴なところはありますが、どこか憎めない実直なところもあり、出雲的なんですよね。
だから豊彦もイクメに騙されてしまう。
イクメから追われた豊彦のその後も気になっていて、そのために長野〜群馬に行きたいんですよね。
今年中に行けるかな???
ドラヴィダ族が出雲に来たのが紀元前1500年、菅之八耳王が出雲王国を建国したのが紀元前5世紀、その間だけでも1000年が過ぎています。
1000年といえば平安時代から平成時代までの間ということです。
私たちが思っているよりも古代の人は機動力もあり、人は広範囲に行き来をしていたようです。
当然血も複雑に交わってくるわけです。
それでもDNAは各氏族ごとに特徴的な性格を形作るもので、さらに積み重ねてきたDNAが今の私たちを形作っていると思うと、とても感慨深い。
いや、本当に貴重なコメントを今日はありがとうございました。
れんげさんのコメントで、今日はメシ3杯はイケそうです(笑)
そうそう、我が家の幸兎、そらくんです。
10歳を過ぎましたが、まだまだ長生きしてくれそうです😄
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長々と書いてしまったコメントですが、喜んでいただけて嬉しいです。
「鬼八」についてはあまり知らないので、いずれ記事が読めることを楽しみにしております! 鬼八も遺体が頭・胴体・足に分けられたのですね。やはり何か繋がりがありそう。面白いです。
中国的な、残虐な手足切断とは、確かに違いそうですね。一方で、ヤマトタケルが大碓命にやったことは、呂后や則天武后や西太后と同じですよね。手足を切断して厠に投げ捨てる…恐ろしい〜。しかも、これらは、殺してからではないであろうことがまた恐ろしい。そして、それをやった理由がヤマトタケル含め、自分が得たかった愛情をそっちに取られたから、という感じなのも怖いです。
名草戸畔の伝承や、ウケモチノカミ・オオゲツヒメに、土偶の風習を合わせて考えてみると、妊婦さんの姿の人形を割って土に埋めるというのは、植物の種を発芽しやすいようにして植えるようなイメージだったのかもしれませんね。やはりこちらは五穀豊穣を願うあたたかいイメージです。
興梠さんという苗字、宮崎の荒立神社の宮司さんがそのお名前でしたっけ?曖昧な記憶なので違うかもしれませんが。人名・地名・伝承、どれも深いですね。
本当に、いつになったら旅行に行けるのか。go toキャンペーンのせいで旅行が遠のいたとしか思えません。長野・群馬に、せめて今年中に行けますよう。ダンノダイラも残念でしたね…。私も行ったことありませんが、でも、何か見たような?と思ったら、近鉄大和朝倉駅から玉列神社〜長谷寺までの伊勢街道を歩いているので、十二柱神社にあった案内板にダンノダイラのことが書いてあったからでした。
今日はこの後、和国大乱の記事のいくつかに、いつものようにお邪魔させていただきます。
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お腹の大きな土偶を割って土に埋める、それは出雲族が行なっていた風習だとあります。
しかし今、僕はそのことを熟考しているところです。
出雲族は死体を穢れとして、徹底的に忌みてきました。
そこに果たして、神を殺して豊穣を祈る、という発想が生まれるのでしょうか。
実は長野の諏訪大社に大祝という少年を生き神として扱う習わしがありました。
しかしその陰で、子供に神を遷して殺すという風習が、どうもあったようなのです。
それは狩猟系洩矢族の流れて行われていたからと僕は考えていたのですが、土偶の件が出雲族で行われていたとしたら、その悲愴な風習に彼らも加担していたのか?と。
この辺の話は阿蘇や高千穂にも関連することなので、もう少し整理していこうと思っています。
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