「お月さん ももいろ だれんいうた あまんいうた あまの口 ひきさけ」
高知県大月町の南端・小才角地区に、「土佐サンゴ発祥の地記念像」として、珊瑚を抱えた少女の像がひっそり立っています。
国道321号線沿いにあり大きな駐車スペースもあるのですが、走行車から見える案内などないために、ほとんどの人が通り過ぎます。
僕はたまたま気づいて車を止めました。
由緒を書いた案内板も劣化が激しく、読むのも一苦労。
しかしそこには、この小才角に伝わる切ない歌のことが記されていました。
この土佐の月灘に伝わる「ももいろさんご」の不思議な歌をもとに、昭和48年にポプラ社から発刊された絵本が『お月さん ももいろ』です。
文章・絵ともに素晴らしく、もの悲しくも美しい絵本です。
江戸時代、珊瑚は幕府のご法度品でした。そのため土佐藩では、海で珊瑚が採れること、拾うこと、持つこと、珊瑚について話すことを禁じ、珊瑚の存在を隠していました。
そこで「月灘にももいろ珊瑚があることを言ってはならないのに、言ったのは誰だ。きっとあま(海女・小女)だろう。あまの口を引き裂け」と唄われることで、珊瑚の存在を口にすることを戒めていたということです。
その歌の背景には、この絵本のような話があったのかもしれません。
『お月さん ももいろ』の舞台、大月市に、月形の石を祀る神社があるというので訪ねてみます。
この黒潮押し寄せる海岸は「月灘」(つきなだ)と呼ばれ、赤、白、ももいろ珊瑚が採れたのだそうです。
車を走らせていると、集落にサイノカミを思わせる地蔵群がありました。
大月町に月灘、そして月形の石を祀る神社とくればもう、月読の巫女・親魏和王の女王・豊玉姫の存在をひしひしと感じるのでした。
程なくして、赤い鳥居が二つ並ぶ姿が見えてきました。
手前が「月山神社」(つきやまじんじゃ)、目的の場所です。
月山といえば山形の出羽三山のひとつ、月山(がっさん)を思い浮かべますが、両者に関係はなさそうです。
そして社殿の前に月形の石があります。
これか!
しかし御神体にしては、道路沿いに無造作においてあります。
調べてみたところ、これは近年の道路工事で出土したものだそう。
明らかに人の手で加工された風があります。
隣の鳥居の奥にあるのは「大師堂」でした。
月山神社はもともと「守月山月光院南照寺」と称される神仏混合の霊場でしたが、明治の神仏分離令により月山神社となったそうです。
そのため、当社は今も、四国八十八箇所巡礼の番外札所となっています。
大師堂は、弘法大師が霊石の前で23日間、月待ちの行(二十三夜月待の密供)をしたと伝えられています。
堂の天井には、有名な人が描いた天井画がありますが、よく見えません。
そして大師堂の裏手には
弘法大師が月待ちの行を行ったという霊石、月形の御神体石がありました。
ほうほうこれが!
確かに月形。
月山神社の由緒によると、修験の開祖と伝えられる「役小角」(えんのおづぬ)が この霊石を発見し、ご神体として月夜見命と倉稲魂命を祀ったのが始まりと記してあります。
まあ、本当かどうかはわかりませんが、何か怪しげな由緒には、とりあえず役小角や弘法大師を付けとけ、的な匂いがありますね。
それにしても御神体、思ったより薄いです。
確かに月の形をしていますが、何かちょっと物足りなさを感じました。
まだ何か隠されたものがあるのではないか。
そう思い、足場の悪い斜面を恐る恐る登ると
あ、ありました、真の御神体が。
少しいびつな、しかし天から落ちてきたのではないかと思わんばかりの月の石。
背筋がぶわりと泡立つ感覚。
これぞ太古より祀られてきた神体石であろうと思われます。
大月町は大内町と月灘村が合併して現在の町名になりました。
当地の近海は古くから「お月灘」と呼ばれ、宝石珊瑚が多く採れたことが伝えられています。
先の「お月さんももいろ」の歌は、本来「お月灘ももいろ」と歌われていたそうです。
それらのことを踏まえ、僕はこの月灘一帯を、親魏和王の女王・豊玉姫の支配域であったと考えます。
矢野八幡神社や豊王家と関係の深い越智族がいたことから、四国の西半分は豊王国だったのです。
そして出雲王家が糸魚川の翡翠を勾玉にしたように、豊王家もこの月灘の珊瑚を勾玉や管玉にして身につけたのでは。
伝承として、豊王家や邪馬台国の話は残せなくなり、役小角の話が加えられたのかもしれません。
しかしこの月山神社の宮司家は、おそらくかの王国の末裔であろうと思われたのでした。
帰り際気がついたのですが、手水もちょっと月形っぽくて、思わず笑みがこぼれました。