香取神宮:八雲ニ散ル花 東国編之弐

投稿日:

p2220579-2017-02-28-10-00.jpg

御子がその太刀を手にすると、熊野の荒ぶる神は、瘴気を含む空気とともに、一閃のもと斬り伏せられた。
昏倒した兵士たちもこれを機に意識を回復して行く。

「高倉下よ、この太刀はただの太刀ではない。いったい其方はどのようにしてこれを手に入れたのだ。」

高倉下は畏まって申し上げた。

「はい、まず私の夢に、天照大神と高木神が現れになり、御子様がお苦しみの様をご覧になっておられました。
二柱の神はかつて葦原中国を平定なされた武甕槌神をお呼びになり、再び天下るよう申されましたところ、
武甕槌神はご自身が平定に使った太刀を降ろすので、それを御子様に届けるよう、私めに託されました。
私は目が覚めて蔵に入ってみると、本当に太刀がございましたので、ここにお持ちいたしました。
その太刀の名は、『布都御魂剣』と申します。」

b_ornament-2017-02-28-10-00.jpg

p2220609-2017-02-28-10-00.jpg

茨城の「鹿島神宮」から千葉の「香取神宮」へ向う途中、「式年神幸祭御駐輦所」(しきねんじんこうさいごちゅうれんしょ)の看板が目にとまりました。
香取神宮では、式年神幸祭が12年に1度行われています。
この祭は、御祭神の「経津主神」による東国平定の様子を模したものと云われています。

p2220611-2017-02-28-10-00.jpg

祭事は神輿を中心とした神幸列が神宮を発し、利根川を御座船で渡り、次いで鹿島神宮に至ります。
さらに利根川を遡って佐原河口に上陸したのち、御旅所で一宿、翌日市内を巡り、神宮へ陸路を還御するといったものです。
駐輦の「輦」とは「天子の乗り物」を意味し、ここで神輿が休まれたのだと思われます。

b_ornament-2017-02-28-10-00.jpg

p2220449-2017-02-28-10-00.jpg

さて、早朝の門前町を歩き抜けると、

p2220450-2017-02-28-10-00.jpg

香取神宮の境内が見えて来ます。

p2220451-2017-02-28-10-00.jpg

香取神宮は鹿島神宮とともに東国三社の一社と数えられ、また、両社ともに宮中の「四方拝」(しほうはい)で遥拝される一社です。

p2220456-2017-02-28-10-00.jpg

四方拝とは、宮中で行われる一年最初の儀式で、元日の早朝に天皇が伊勢神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝します。
四方の諸神とは、天神地祇、「神武天皇陵」、先帝三代の各山陵、武蔵国一宮の「氷川神社」、山城国一宮の「賀茂別雷神社」と「賀茂御祖神社」、「石清水八幡宮」、「熱田神宮」、常陸国一宮の「鹿島神宮」、下総国一宮の「香取神宮」となっています。

p2220457-2017-02-28-10-00.jpg

境内にある護国神社を過ぎて、

p2220460-2017-02-28-10-00.jpg

稲荷社の「押手神社」の前には、

p2220464-2017-02-28-10-00.jpg

「要石」(かなめいし)があります。

p2220468-2017-02-28-10-00.jpg

鹿島神宮の要石と対を成していて、同じような伝承が伝わっています。

p2220470-2017-02-28-10-00.jpg

地上に出ている部分は本体のほんの先端で、地中部分は巨大なのだと云います。
どのくらい巨大かというと、香取神宮の凸形の要石と、鹿島神宮の凹形の要石は地中でつながっていて、地震を引き起こす大ナマズの頭を押さえつけているそうです。

p2220466-2017-02-28-10-00.jpg

ここが、太古から続く信仰の源であり、香取神宮の「心の御柱」となります。

b_ornament-2017-02-28-10-00.jpg

p2220474-2017-02-28-10-00.jpg

楼門へやってきました。

p2220476-2017-02-28-10-00.jpg

香取神宮の御祭神は「経津主神」(ふつぬしのかみ)です。

p2220481-2017-02-28-10-00.jpg

イザナギがカグツチを斬った際、剣から滴る血が固まってできた岩群がフツヌシの祖であると記紀は云います。
カグツチの血が岩群を染め、そこに「磐裂神」(いわさくのかみ)「根裂神」(ねさくのかみ)が生まれます。
その二人の子の「磐筒男神」(いわつつのおのかみ)「磐筒女神」(いわつつのめのかみ)が経津主を生んだと伝わります。

p2220482-2017-02-28-10-00.jpg

イザナギがカグツチを斬った剣は「十握剣」(とつかのつるぎ)と呼ばれていますが、
その「鐔」(つば)から武甕槌神の祖が生まれ、「鋒」(さき)から経津主神の祖が生まれました。

p2220483-2017-02-28-10-00.jpg

ただし、「古事記」と「日本書紀」において、この二柱の神の表記には、微妙な違いがあります。
この二柱の神の一番の登場シーンは出雲における葦原中国平定の場面になりますが、日本書紀では経津主神は武甕槌神と共に出雲へ派遣され、大国主命と国譲りの交渉を行ないます。
しかし「古事記」ではそこに、経津主神の名は出て来ません。

p2220484-2017-02-28-10-00.jpg

日本書紀では、「高木神」(高皇産霊)が、誰を葦原中国平定のために遣わしたらよいか諸々の神に尋ねます。
そして、一同が経津主神を推挙したところ、武甕槌神が「私では不足か!」と異議を唱え、結局、武甕槌神を経津主神に添えて平定に向かわせることになります。

ところが、古事記では「天照大神」が誰を遣わしたらよいか「思金神」(おもいかねのかみ)と諸々の神に尋ねると、一同は武甕槌神(建御雷之男神・たけみかづちのおのかみ)を推挙し、「天鳥船神」(あめのとりふねのかみ)を添えて遣わせます。

p2220486-2017-02-28-10-00.jpg

これはちょっと興味深い話で、日本書紀では、「物部」の神である経津主が正使、武甕槌は副使として顔を出しますが、
古事記では、武甕槌神が正使で、「海家」の神、天鳥船が副使となっています。

p2220487-2017-02-28-10-00.jpg

そして経津主も天鳥船も、二度渡来した「徐福」とともに日本に移り住んだ、中華秦国の渡来人が信仰した神となります。

p2220488-2017-02-28-10-00.jpg

経津主神を祀る、立派な社殿が鎮座します。

p2220489-2017-02-28-10-00.jpg

経津(ふつ・布都・韴霊・賦都)の名の由来は、刀剣の鋭い様を表した言葉であると云われていて、武甕槌神が所有し、後に神武天皇に渡ったと記紀が伝える神剣の名が「韴霊剣」(ふつのみたまのつるぎ)で「フツ」の名を冠していることから、葦原中国平定を成した聖剣こそが経津主神の御魂であるという説もあります。

p2220490-2017-02-28-10-00.jpg

また、日本書紀には葦原中国平定に続きがあり、経津主神と武甕槌神の二神で出雲の国譲りを成就した後、経津主神ひとりが、帰順した大己貴神(大国主命)が推挙した「岐神」(くなとのかみ)を先導役として全国平定を成したかのように書かれています。

p2220504-2017-02-28-10-00.jpg

クナトの神とは出雲王国が信奉した大祖神です。
その出雲王国は東征して来た物部勢に攻め滅ぼされてしまうのですが、日本書紀の記述はその事実を、ひっそりと伝えようとしていたのかもしれません。

p2220494-2017-02-28-10-00.jpg

香取神宮の古来の祭祀氏族は、経津主神の子の「苗益命」(なえますのみこと、天苗加命)を始祖とする、「香取連」(かとりのむらじ)一族であったと云われています。
後に養子に入った大中臣氏によって香取大禰宜を担われるようになり、藤原氏の氏神となっていったとあります。

p2220491-2017-02-28-10-00.jpg

中臣氏とは、「天児屋根」(アメノコヤネ)を祖神とする一族ですが、児屋根は渡来神であると思われます。
物部氏と安倍氏が聖地とした東国を、後に中臣氏が攻め奪ったと考えることができます。

p2220497-2017-02-28-10-00.jpg

境内には摂社として武甕槌神を祀る「鹿島新宮」があります。

p2220503-2017-02-28-10-00.jpg

木花開耶姫を祀る「櫻大刀自神社」がありますが、コノハナサクヤヒメは物部王国の王「イニエ」が后とした薩摩の「阿多津姫」だったと云います。

p2220506-2017-02-28-10-00.jpg

経津主神の親神である「磐筒男神」「磐筒女神」を祀る匝瑳神社(そうさじんじゃ)なども鎮座します。

p2220512-2017-02-28-10-00.jpg

境内右端には源頼義の祈願により三又に分かれたといわれる「三本杉」があり、

p2220509-2017-02-28-10-00.jpg

真中の杉が空洞になっています。

p2220510-2017-02-28-10-00.jpg

空洞の中にすっぽりと入ることができますが、ここに立つと、高揚するような不思議な気分になります。

p2220612-2017-02-28-10-00.jpg

楼門横には老木のスダジイがありますが、ここにはかつて13m超の大杉があったそうです。
徳川光圀公が「宮地の数多の杉の母であろう」と言って「木母杉」と名付けました。

p2220614-2017-02-28-10-00.jpg

木母杉のものでしょうか、木の皮がたてかけてあります。

p2220517-2017-02-28-10-00.jpg

祈祷殿は昭和の大修築まで拝殿として使用されていたものを、移築しています。
経年の趣が素晴らしい神気を放っています。

p2220520-2017-02-28-10-00.jpg

その奥にお水取りができる場所がありましたが、その横の道が気になります。

p2220524-2017-02-28-10-00.jpg

崩れかけた、細い道をぐいぐい降りて行くと、

p2220525-2017-02-28-10-00.jpg

鳥居がありました。
ゾクゾクして来ます。

p2220527-2017-02-28-10-00.jpg

その先にあったのは「狐座山神社」。

p2220528-2017-02-28-10-00.jpg

秘境の空気がビリビリ来ます。

p2220529-2017-02-28-10-00.jpg

ひっそりと立つ社。

p2220530-2017-02-28-10-00.jpg

命婦の神を祀っているようなので稲荷なのでしょうが、香取神宮のパンフレットなどにもここは記されていません。
元は古い地主神がここに祀られていたのかもしれません。

b_ornament-2017-02-28-10-00.jpg

p2220499-2017-02-28-10-00.jpg

さて、香取神宮にも鹿島神宮と同じく「奥宮」があるというので尋ねてみます。

p2220539-2017-02-28-10-00.jpg

一旦境内を出て、歩いて行くと、剣聖の何某かの墓がありました。

p2220542-2017-02-28-10-00.jpg

香取神道流の始祖の墓だそうです。
剣の神だけに納得です。

p2220543-2017-02-28-10-00.jpg

そして奥宮が見えて来ました。

p2220545-2017-02-28-10-00.jpg

静かで、爽やかな風が吹く、聖地です。

p2220546-2017-02-28-10-00.jpg

社殿は、伊勢神宮式年遷宮の古材を使用たものと云います。

p2220547-2017-02-28-10-00.jpg

経津主神の荒魂を祀っていますが、剣神ともなると荒魂とはいえ、鋭い日本刀の切っ先のようにピンと張りつめ、
静かにそこに佇んでいるように感じました。

p2220548-2017-02-28-10-00.jpg

b_ornament-2017-02-28-10-00.jpg

p2220574-2017-02-28-10-00.jpg

最後に「津宮鳥居河岸」(つのみやとりいがし)へ尋ねてみました。
利根川に面して立つ、香取神宮の一の鳥居です。

p2220570-2017-02-28-10-00.jpg

経津主神はここから上陸したと云われています。

p2220572-2017-02-28-10-00.jpg

与謝野晶子の句碑がありました。

p2220576-2017-02-28-10-00.jpg

経津主神は神代三剣に数えられる神剣「布都御魂」(フツノミタマ / ミカフツノカミ)を神格化したものだという説もありますが、その太刀は、今は奈良の石上神宮に御神体として鎮座しています。

p2220580-2017-02-28-10-00.jpg

敗走する大彦・安倍勢と、それを追う物部勢。
この利根川を挟み、両者はここで対峙したのかもしれません。

p2220578-2017-02-28-10-00.jpg

つまりここに前線があったのでしょうか。
今は穏やかな風景が広がるばかりでした。

p2220581-2017-02-28-10-00.jpg

1301e9a699e58f96e7a59ee5aeae-2017-02-28-10-001.jpg

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中