霊峰白山、雪化粧をまとった姿はまこと麗しく、月あかりに浮かぶ神奈備を、越智の巫女は崇め祀ったのです。
洲原神社を出て156号線をひたすら北上すれば、美濃馬場「長滝白山神社」(ながたきはくさんじんじゃ)に至ります。
表本宮と掲げる当社は、白山三馬場(はくさんさんばんば)の中でも正統であると言わんばかり。
白山三馬場とは、平安時代に設けられた霊峰白山の山頂まで至る山道・禅定道の三つの起点のことで、加賀馬場「白山寺白山本宮」(白山比咩神社)、越前馬場「平泉寺白山神社」、美濃馬場「白山中宮長滝寺」(長滝白山神社)の三社を言います。
いずれも奈良時代に越知山の泰澄が創建したという伝承が残されており、神仏習合期にはいずれも巨大な社殿群・伽藍を構え、宗教都市と化していました。
江戸時代にはこの三馬場による、白山山頂の祭祀権に関する論争が巻き起こります。
当時は、平泉寺白山神社、長滝白山神社が優勢だったそうで、寛文8年(1668年)白山麓は江戸幕府の公儀御料となり、霊応山平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得しました。
現在では、石川県の白山比咩神社が白山神社の総本社とされます。
伝承によれば、長滝白山神社は養老元年(717年)、白山中宮長滝寺として泰澄が創建したとされています。
養老6年(723年)には同寺にて元正天皇の病気平癒を祈願して効験があったことから、元正天皇自作の十一面観音、聖観音、阿弥陀如来の本地仏を安置し、白山本地中宮長滝寺に改称しました。
平安時代の長滝寺は、白山三所、若宮社、大講堂、鐘楼、護摩堂、神楽殿、三重塔、法華堂、薬師堂など30以上の堂宇が建ち、6谷6院360坊を有していたとのこと。
文永8年(1271年)には火災により半数の建物を焼失し、正応3年(1290年)には本殿が再建されています。
江戸時代の白山山頂の祭祀権論争時は、日本全国の白山神社の半数以上が白山本地中宮長滝寺系統の白山神社であったといい、当院がかなりの勢力を有していたことが窺えます。
しかし慶応4年(明治元年、1868年)の神仏分離令により、長滝白山神社と長瀧寺に分離。
白山本地中宮長滝寺の建物のうち、白山三社、拝殿は長滝白山神社となり、大講堂、薬師堂、弁天堂、鐘楼、経蔵などは長滝寺となりました。
参道を歩き進んでいると、護摩壇跡地に神社が建っているのが目に留まります。
奥の社殿は「金剛童子堂」(こんごうどうじどう)ですが、手前に石で囲まれた護摩壇遺跡が残されています。
ここは白山登拝に際し、護摩を焚き、祈祷をしたところと云われています。
そしてこの神社、左ねじの木を供える風習があるそうですが、この木、見覚えがあります。
宇佐神宮の御神体が眠る御許山の中腹にあった左用之神です、
なんかもうこれ、アラ(荒)ハバ(蛇)キ(木)って感じですよね、知らんけど。
さて、ようやく社殿が見えてきました。
立派な拝殿ですが、
近づいてみて、さらにその巨大さに驚きます。
圧巻。
社殿は明治32年(1899年)に火災で焼失し、現在の建物は大正時代の再建だそうです。
祭神は白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ)・白山権現(はくさんごんげん)とも称される「菊理媛神」(くくりひめのかみ)で、
「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」も配祀されています。
その他左右に大小の社殿が2つずつ建っていますが、
案内板を見れば、左から「大将軍」「越南智」「白山大御前」「別山」「若宮」となっています。
この中で超気になるのが
「越南智」社。越南智とはいったい…
「越南智」「白山大御前」「別山」の三つの社殿は、それぞれ白山の3つの峰に対応しているようで、越南智は大汝峰のことらしいです。
そうだったのかー。
大汝峰(おおなんじみね)と聞けばオオナムチをイメージしていましたが、これは越智だったとうことでしょうか。
おおなんじ=越南智(おなち)なので越智(おち)が絡んでいることは可能性高し。
ここで「龍宮ノ末裔篇」のストーリーをサクッと振り返ってみます。
大分の宇佐家は古い一族ですが、豊玉姫の時代に隆盛を極め、宇佐ではなく「豊」の文字を地名に付けるなど、明らかなターニングポイントを迎えています。
これは海部家の宇那比姫命(宇奈岐日女)が湯布院に天降っており、彼女の先祖に天御蔭(あまのみかけ・大和宿禰)の妃が富家の「豊水富姫」であったことに由来すると僕は考えます。
さて、その豊玉姫こそがいわゆる邪馬台国の卑弥呼とされる人物で、佐賀の物部イニエ王(10代崇神帝)と夫婦となり、大和に東征の計画を立てます。
イニエ王は先妻・阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)との間にイクメ(11代垂仁帝)を儲けており、豊玉姫は豊彦と豊姫の二児を儲けました。
いよいよ東征を決行するというとき、イニエ王は亡くなります。そこで豊玉姫はイクメ、豊彦・豊姫を連ねて出航することにしました。
宇佐公康氏の宇佐家伝承によると、この時、豊彦の妃になったのが四国伊予国の越智家の姫君でした。
航海の途上、広島安芸国で病のため、豊玉姫が亡くなります。
この時、豊彦・豊姫は宮島に残り、母の葬儀を行いました。
女王は亡くなる直前にイクメをリーダーに指名し、大和へ先に向かわせました。
敵を制圧し、大和入りを果たしたイクメ。それから遅れて豊兄妹が大和入りします。
大和を制圧したとはいえ、そこにいるのは出雲色の強い豪族たちでした。
豊姫は豊来入姫(豊鍬入媛)として大和笠縫邑で月神祭祀を行いました。その神秘的な姿に、母系社会の出雲系大和族は熱中します。
彼女の絶大な人気に嫉妬したのが、イクメでした。
イクメは豊彦(豊来入彦・豊城入彦)に蝦夷討伐をそそのかし、大和から追い出します。
その上で今度は豊彦軍を攻めるように、大和から追ってを差し向けました。
身の危険を感じた豊姫は最初、丹後の海部家を頼りますが、その後鈴鹿の椿大神社に逃れ、そこで刺客によって暗殺されたと云います。
東国に追いやられた豊彦は、群馬上毛国に王国を築きました。
時を経て豊彦の子孫「竹葉瀬ノ君」に幸運が舞い込みます。
三韓征伐(二韓)を成し遂げたオキナガタラシ姫・神功皇后が、パートナー武内襲津彦との間に設けた子・7歳のホムダ皇子を亡くしてしまいます。
そこで秘密裏に竹葉瀬ノ君を養子に迎えることにしたのです。
この竹葉瀬ノ君こそが15代応神帝です。
宇佐神宮ではこれを喜び、中央の豊玉姫の横に、神功皇后と応神天皇を祭神として祀ったのです。
さて、この竹葉瀬ノ君が福井敦賀の氣比神宮で秘密の養子縁組を行う時、越智家も同行した気配があります。
竹葉瀬ノ君は群馬から新潟の居多神社まで北上し、そこから船で福井入りをしていますが、その道行に越智神社が点在しています。
そして福井にはあの越知山越知神社が鎮座しているのです。
白山は越知山で修行をしていた泰澄が開山したことになっています。
しかし実際は当地にいた越智族によって、白山信仰は既に為されていたのだろうと考えます。
それを裏付けるような伝承がここにありました。
小高いところにある薬師堂、その下に「千蛇ケ清水」という水が湧き出る場所があります。
昔、白山には3千尾もの大蛇(おろち)がいて、里に下っては村人を苦しめていたといいます。
これを聞いた泰澄上人は、蛇を集めて諭すことにしました。
しかしこのうち千尾の大蛇は泰澄の言うことを聞きません。そこで泰澄はこの千尾を法力で調伏し、白山の山腹にある弥陀ヶ原に岩を積み上げて永久に封じこめました。(蛇塚)
残る2千尾のうち千尾を、泰澄は刈込池へと案内します。そこに蛇の嫌いな鉄製の剣を泰澄が突き立てたので、大蛇らはそこから出られなくなりました。
最後に残る千尾を連れて行ったのは白山の山頂にある山池です。大蛇らが池に入ると、泰澄は万年雪を池にかぶせて封印しました。
そして万が一雪がとけだしそうになったら、上から御宝庫という峰が崩落して穴を塞ぐように設えます。
この最後の大蛇が今も閉じ込められている池が「千蛇ヶ池」で、この千蛇ケ清水はそこに通じているのだということです。
この水飲めね~、白山の大蛇ってオロチ族って事でしょう。泰澄殺っちまったの?3千人のオロチ族殺っちまったの?!?
白山に棲む大蛇とは越智族の事でしょう。越智とはオロチが語源なのかもしれません。
この伝承は、泰澄がそれらを全員殺したということではないと思いますが、彼が上書きし、少なくとも越智族が祭祀していた痕跡は消されているとは言えるのではないか。
千蛇ケ清水も白山の千蛇ヶ池に本当に繋がっているってわけではないでしょうが、僕はなぜか不思議とこの清水には足が向きませんでした。
白山からは手取川、九頭竜川、長良川、庄川という多くの川に水をもたらし、それは生命の源として古代から崇められてきました。
月神信仰と不老不死の信仰は水に深く関わりがあり、そこから生まれた変若水信仰を「をちみず」と呼んだのも納得がいくものです。
月の霊水を受けるため水鏡が用いられ、その白影の映る水こそが「をちみず」であった。
白水、白川などの地名も付けられ、越後方面に定住した越智族が、月明かりに白く浮かぶ神奈備を「白山」と呼んだのではないか、そんな気がするのです。
長滝白山神社の隅に閼伽井の名残と思われる井戸があり、
その正面に磐座らしきものがありました。
この牛王石は天から降ってきた石で、日月が腰をかけたと言い伝えられます。
牛王というとスサノオを思い浮かべますが、日と月、出雲族と豊族の神が仲良くこの石に降りたのか。
少し荒れた磐座を見て、過ぎ去った古代の日々を僕はしっとりと思い描いたのです。